あの人今何してるの?

かつて一世を風靡した人達を追い続けるハードコアな独り言の数々

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Category: R&B全般

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H Townを偲ぶ。Dinoを偲ぶ。

Record Player


年齢を重ねるごとに時の流れは早くなる。
過ぎ去った時間を振り返るのが多くなったのは年を取った証拠なのか。

17歳の秋。
当時高校3年生だった自分は、今は亡き横浜関内のバージンレコードによく通っていた。
そこで触れる輸入レコードから感じる海外の匂いが大好きだった。
まだ行ったことのない海の向こうにたくさんの憧れを抱いていた。

ある日そのレコード屋でふと手にしたレコードがある。
H-Townのデビューアルバム「Fever For Da Flavor」だ。

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当時のダンサーたちの間で流行っていたフランネルのフードを羽織ったその三人組は、アルバムタイトルからも察するように Bell Biv Devoe や GUY のような縦ノリ系のダンスミュージックが得意そうな風貌だった。当時ヒップホップダンスに没頭していた自分は、踊りの練習の時に使える曲があればいいやという軽い気持ちでそのレコードを買って帰ることに。

家に帰ってからレコードに針を落とすと、良い意味で期待を大きく裏切られた。リードボーカルのDinoの粘るような歌唱力と、スローでナスティなバラードが最高にかっこ良かったからだ。

それから数十年の月日が経ち、ふと彼らのことを思い出した。
H-TownのCDをかけると一瞬にして当時の自分にタイムスリップした。
たくさんの夢と希望を抱えていたあのころの自分に。


HTOWN01.jpg

H-Townは、テキサス州のヒューストン出身の双子兄弟DinoとShazamから結成される。

彼らが録音したデモテープを、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったラップグループ 2 Live Crew のルーサー・キャンベルにそのデモテープを送ったところ、その出来栄えのよさに驚いたルークはすぐにその二人を呼び寄せる。ルークの目の前で即興で歌を披露したところ即契約に至ったという。

その後幼馴染のGIを加えトリオ編成となった彼らは、1993年に前述のデビューアルバムをリリース。アルバムからの1stシングルとなった「Knock'n Da Boots」はビルボードのR&Bチャートで1位を記録する大ヒットに。後に彼らの代表曲として知られることになる名曲だ。アルバムもプラチナムに認定され、当時のR&Bシーンを代表する存在にまで成り上がった。

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なによりもDinoの歌唱力が目を引くが、それをトータルプロデュースしたルーサー・キャンベルの策士ぶりにも脱帽してしまう。ルーサーといえばそれまでは卑猥なリリックで数々の物議を醸し出した問題児ラッパーだ。しかしエグゼクティブプロデューサーとしての彼はそのイメージを一新。良質なR&B作品を仕上げるため指揮官として采配を揮った。その作品の完成度は、彼の卓越したトータルプロデュース力を見事に証明して見せた。そんな彼の才能に驚いたのは私だけではないはずだ。

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デビューした1993年のSoul Train Awardでは「Best R&B/Soul or Rap New Artist」を受賞。その翌年の1994年には早くも2ndアルバム「Begging After Dark」をリリースし、ゴールドディスクに輝く。安定した人気を手中に収めた彼らだが、3rdアルバム「Ladies Editions」のリリースをめぐって、デビュー以来 共に歩んできたきたルークと決別。このあたりから彼らは徐々に失速し始める。

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1998年以降グループの活動は事実上休止状態となる。2000年にメンバーのShazamはインディーズからひっそりとソロアルバムを出すものの、その5年間、H-Townは第一線から姿を消すこととなった。

そして彼らの名前を久しぶりに耳したのは意外なところだった。

2003年1月28日。
Dinoはヒューストンのレコーディングスタジオを出る。ガールフレンドが運転する車に乗りこみ、車道を走っている最中、赤信号を無視したスポーツカーに激突され、Dinoとガールフレンドは即死。追突してきた車には3人が乗車していたが、彼らは全員無事だった。ディノはまだ28歳だった。

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Dinoの不慮の事故の翌年、実に7年ぶりとなるH-Townのカムバックアルバム「Imitation of Life」がリリースされた。このアルバムは弟のShazamが主導をとり、Dinoの未発表曲を含む追悼アルバムという位置づけになった。生前、マーティン・ローレンス主演の映画「A Thin Line Between Love & Hate (1996年)」のサウンドトラックで共演したZappのロジャートラウマンもこのアルバムに参加している。

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その後、H-Townはどうしているのだろうか。

ShazamとGIはデュオとしてH-Townの活動を継続。2009年にはJODECIと共演し、自分たちの往年のヒット曲「Knock'n Da Boots」をベースにした「Knockin' Your Heels」を発表し、当時のファンたちを喜ばせている。

Htown_Kockin_The_Heels.jpg

弟のShazamはインタビューでこう語っている。

「H-Townのニューアルバムは完成したんだ。でも今はレーベル捜しで少し問題があってね。レーベル側はDinoの代わりの新メンバーを入れろって言うんだよ。その条件が飲めなければ契約はしないって。僕からすれば誰もDinoの代わりになんかなれないよ。だからそんな話は受け入れられない。そんな事情があって、H-Townのアルバムより僕のソロアルバムが先にリリースされるかもしれない。そのアルバムの中でH-Townの曲もいくつか入れれられれば良いなと思ってるんだ。」

このインタビューは2008年に行われたものだ。
2012年現在、H-TownのアルバムもShazamのアルバムもリリースされていない。

近年のミュージックシーンでは、ベテランシンガー達の苦闘が続いている。ティーンネイジャーの歌手達が中心のこのご時勢、かつて賑わせた往年のシンガー達は作品のリリースに漕ぎ着けるのがとても難しい現状だ。

Htown04.jpg

人は誰しもが確証のない未来を歩んでいく。
喜びと哀しみを繰り返す毎日の中で、それぞれが生きた証を残そうとしていく。
それが人生なのかもしれない。

Dinoにとって、それは彼の歌 そして H-Townそのものだったのだろう。
彼のH-Townは、残されたメンバーたちの手によって今も続いている。
そしてDinoのことを知らない若い子たちが、彼らの曲にインスパイアされる日が来るのかもしれない。
自分がかつてH-Townのレコードを手にしたあの日のように。

HTOWN02.jpg




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◎今日のひとこと◎
超久しぶりにエントリを書いてみましたっ!(・∀・)ノ


=5 =1
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Category: 未分類

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お久しぶりです


久しぶりにデザインをリニューアルしました。
またマイペースに綴って行こうと思っています。
末永くよろしくお願いします。


― 管理人オザポン ―

=4 =1
テーマ : 洋楽  ジャンル : 音楽

Category: ニューキッズオンザブロック

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ドニー・ウォルバーグ ( New Kids On The Block )

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1994年に出版された自伝「Ice Opinion」の中で、アイスTはこう述べています。
「やつは黒人のような白人だ。」

その人物とはドニー・ウォルバーグ(Donnie Wahlberg)。
かつて一世風靡したニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック(New Kids On The Block)の一員として、これまでに5枚のアルバムを発表し、全世界で合計1600万枚のCDセールスを記録した人物です。 グループ在籍時の後期にはプロデューサーとしての才覚も発揮した彼ですが、そのアイドル的イメージが先行し、長らくジョークの対象として扱われてきました。

映画「8マイル」でも、エミネム演じるBラビットの対戦相手が「おまえはニューキッズ・オン・ザ・ブロックだろ」とディスするシーンがあったのも記憶に新しいです。

ニューキッズが解散してから10年以上経った今でも、白人ラッパーを嘲笑する代名詞として扱われている彼らですが、前述のアイスTやチャックDのように、ドニーに対してリスペクトを示した人もいました。今日は彼が歩んできた経緯と、現在の活動を探ってみたいと思います。





1. ゲットーからの脱出

マサチューセッツ州ボストン。
この都市にドーチェスター(Dorchester)という町がある。
労働者階級の人々が住むこのエリアは、住民の50%が黒人、残りの50%がアイルランド系だ。治安の悪いことでも有名なこの町は、ボストンの犯罪多発地域として知られている。

1969年8月17日。
ドニーは8人兄弟の7人目として、この町に生まれた。
母親アルマにとって、それは3度目の再婚だった。 しかしこの結婚生活も長くは続かず、ドニーが12歳の時に離婚をしてしまう。 母方に引き取られた彼の生活は決して楽ではなかった。 1つの部屋を兄弟たちと共有し、着る服も皆で着回ししてやりくりした。

「 アニキ達は皆、地元では有名なタフガイばかりだった。 犯罪やドラックに手を出していたよ。 俺も生意気なガキだった。 アニキ達に近づこうと必死だった。 でもある日、アニキ達の姿を見てこう思ったんだ。 俺は違う道を歩かなきゃいけないんだって。」

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ドニーは小さい頃からラップが大好きだった。 
特にRUN-DMCの大ファンで、10歳の頃からラップを始め、自らリリックも書き始めたという。

「 最初に結成したグループは リスク (RISK)っていう名前だった。
 今考えると、とてもお粗末なレベルだったけど、自分たちは最高にイケてると思ってたね。
 放課後、俺の家で集まって皆でリリックを書いたり、ラップしたりしてたよ。 
 学校の宿題なんかそっちのけで のめり込んでたね。」

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音楽への情熱は、中学に入っても変わらなかった。

「 中学ではザ・クール・エイド・バンチ(The Kool Aid Bunch)ってグループの一員だった。
 メンバーの出入りは激しかったけど、俺はずっと在籍してたよ。
 パーティーなんかでよくパフォーマンスしてた。
 そこで女の子達にキャーキャー言われるのは、悪い気分じゃなかったね(笑)」

ローカルでの活動を続けていく中で、ドニーは地元では有名な存在になっていった。
そんな噂を聞きつけた ある人物との出会いが、その後の人生を大きく変える事になる。





2. モーリスのリベンジ

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1983年。 
ボストン出身のキッズグループ、ニューエディション(New Edition)がヒット曲を量産していた。
そのNew Editionを発掘したのが、モーリス・スター(Maurice Starr)だった。

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しかし金銭問題が原因で、New Editionはモーリスの元を離れ、他のマネジメントに移ってしまう。奇しくもモーリスと決別してから、New Editionは全盛期を迎える結果に。 自らが育てたグループを、これからという時に失ったのは、あまりにも手痛い損失だった。

復讐心に燃えるモーリスは、「第二のNew Editionの結成」という構想を抱いた。
New Editionのように歌って踊れる少年5人組。 
但し今回のメンバーは全員「白人」であるということ。 
それがモーリスの捜している人材だった。

モーリスは地元ボストンで行われるタレントショウを廻り、ストリートの少年達に地道な聞き込み続ける。 すると複数の人物がこう答えたという。「ドニーは? ラップができるって有名だぜ。」 
モーリスはドニーを捜し求め、実際に対面する運びとなった。 

「君はラップが出来るんだよね?」 
「ああ。」 
「ちょっとやってみてくれるかい?」 
「ああ、いいよ。」

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そこでドニーはRUN-DMCの「Sucker MCs」を完璧にラップしてみせたという。 
" 間違いない! こいつは売れるぞ! " 
そう確信したモーリスはドニーに こうもちかける。 

「 New Editionみたいなグループを作りたいと思ってるんだ。 
 ぜひ君にその一員になって欲しい。 
 他のメンバーはまだ決まっていないけど、これからオーディションして選ぶつもりだ。 
 そうだ、君の友達も何人か連れてきてよ。」

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック(New Kids On The Block) 誕生の瞬間だった。





3. アイドル時代

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メンバーが決定してから、過酷な下済み生活が始まった。
学校が終わった後、そのままスタジオへ向かい、モーリスの指揮の下、ボイストレーニングやダンスの練習が夜まで続いた。 そしてタレントショウやクラブに出演し、辛いドサ回りの日々が続いた。
当時を振り返ってモーリスは言う。 

「 あれは彼らに与えた試練だった。
 彼らがどれだけ耐えられるのか、そして客の反応を確かめたかったんだ。」

ドニーにとっても今までにないキツい毎日だった。
弟マーク(=現在俳優として活躍しているマーク・ウォルバーグ)が脱退したのもこの時期だ。

「 つらい毎日だった。
 でも俺は辞めるわけにはいかなかった。 
 これが今の生活から抜け出す唯一のチャンスだったから。 」

1986年。
コロンビアレコードより念願のデビューアルバム「New Kids On The Block」が遂に発売される。しかしそれは期待を大きく下回るセールスとなった。 

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泣きたくなるほどダサいジャケット。 初期のNew Editionもどきの曲の数々。 その大半は古臭さを感じてしまうものだが、特筆すべきはグループ名の由来にもなった曲「New Kids On The Block」。 ドニー自らのペンによるラップナンバーで、Run DMCの「Sucker MCs」に酷似した佳作になっている。 明らかにNew Editionの「Popcorn Love」を意識した「Stop It Girl」では、変声期前のジョーイ・マッキンタイアー(Joey McIntyre)が、かわいいラップと歌声を披露。  また、The Delfonics の名曲「Didn't I Blow Your Baby」のカバーも収録されていることを加筆しておこう。 

デビューアルバムで見事につまづいた彼らだが、当時大人気だったポップシンガー、ティファニー(Tiffany)の前座を務めたことがきっかけとなり、世間の注目を集め始める。

1stアルバムの失敗から、モーリスはニューキッズの音楽性を大胆に変化させる。 1stアルバムで見受けられたバブルガムソウルやラップといった要素を排除し、2ndアルバムではポップで、ロックな曲をメインに製作。 購買者のターゲットを、完全に白人のティーンに絞ったのだ。

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1988年に発表された2ndアルバム「Hangin Tough」は、ビルボードアルバムチャートで見事1位を獲得。 このアルバム内で唯一New Editionチックな曲が、変声期前のジョーイ君が歌うおセンチなバラード曲「Please Don't Go Girl」。 New Editionのヒット曲「Is This The End」を模倣したかのような この曲はビルボードのシングルチャートで10位を記録。 続く「You Got It(The Right Stuff)」は3位。 「Cover Girl」は2位。 そして「Hangin Tough」で遂に1位を奪取。 続いて「I'll Be Loving You (Forever) 」でも1位を獲得した。

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勢いは止まらない。
1990年に発表されたアルバム「Step By Step」もアルバムチャートで再び1位を獲得。

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全編ポップな曲で埋め尽くされたこのアルバムからの1stシングル「Step By Step」はビルボードのシングルチャートで1位を獲得。 彼らの代表曲ともなった。 続く「Tonight」もシングルチャートで7位を記録。 

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余談だが「Step By Step」のPVでは、ドニーが大ファンだというパブリックエネミー(Public Enemy)のTシャツを着ているのが確認できる。  





4. 嘲笑の嵐のなかで

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全米のティーン達のハートを見事に射止めた彼らは、CDの売り上げだけに留まらず、彼らをモデルにしたアニメ番組、フィギア人形、ランチボックスや文房具など、ニューキッズ関連のグッズは全て飛ぶように売れ続けた。

そして記録的な大成功を収めた彼の元には、莫大な金が舞い込んできた。ドニーはボストン郊外に新居を購入し、家族をそこに住まわせた。 ゲットーからの脱出、念願の親孝行を果たし、彼にとって人生最良の時だった。

しかしそんな栄光も陰りを見せ始める。
黒人層を中心に、彼らに対する誹謗や中傷が相次いだのだ。

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「 黒人の真似をして金儲けする偽者ども」
「 ビジュアルだけの子供だまし。」

そんな中、マネージャーのモーリスが、下済み時代に地元のギャングから莫大な金を借りていた事実が発覚。 クリーンなイメージを売りにしていたニューキッズにとって、大きなイメージダウンとなった。 さらに、グループの著作権をきちんと抑えていなかった為、、一連のグッズの収益をめぐって各方面で訴訟が勃発。

トラブルはそれだけでは終わらない。
以前モーリスの元で働いていたと言うスタッフが「歌を歌っているのはモーリス。ニューキッズは口パクしているだけ。」という発言が物議をかもし出す。 ニューキッズ側はこれを完全に否定したものの、わだかまりの残る結果となった。

そんな状況下で、ドニーは自分を失いかけていた。

1991年3月27日。
滞在中のケンタッキー州シールバッチホテルにて、酔った勢いで部屋中にウォッカをバラ撒き着火。 放火の容疑で逮捕されてしまうのだった。 

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5. 自立の時。

服役をなんとか免れたドニーは、目を覚ましたかのように一心不乱に仕事に打ち込む。 
1991年にはグループ初のREMIXアルバム「No More Game The Remix」を発売。

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ここでは当時全盛期だったC&C Music Factory を大々的にフィーチャー。 このアルバムからドニーは本格的にプロデューサーとして参加している。 まだまだ荒削りなレベルではあったが、他アーティストのプロデュースにも着手。 それがマーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチ(Marky Marky & The Funky Bunch)だ。

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ドニー自身もドニーD(Donnie D)名義でラッパーとしても参加。
ゴリゴリのヒップホップ作品ではないものの、ロレッタ・ハロウェイ(Loleatta Holloway)の「Love Sensation」をサンプリングした「Good Vibration」は、ビルボードシングルチャートで見事1位を獲得。 続く2ndアルバムでは、興行的には前作を下回ったものの、収録曲 「I Want You」 は LLクールJ の 「I Need Love」 チックなメローなラップナンバーで、隠れた名曲と言えよう。 これらの作品を通して、ドニーのプロデューサーとしての実力を世間に証明することにも繋がった。

「 もう昔みたいにラブソングは歌いたくない。
 自分の好きな音楽をこうしてプロデュースしていく事が、俺の今の生きがいなんだ。」

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ドニーに決断の時がやってきた。
デビュー以来、マネージメントだけでなく、音楽面でも全ての指揮を取っていたモーリス・スターと完全に決別することを決意。 作られたアイドルグループから脱却し、自らの手で大人のグループへと変えようとしたのだ。

1994年にはアルバム 「Face The Music」 を発表。
モーリスとの決別後、初のアルバムとなる今作は、タイトルからも分かるように、真剣に音楽と向き合って作り上げた渾身の勝負作だ。

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注目すべきは豪華なプロデューサー陣。
プロデューサーとしてテディ・ライリー(Teddy Riely)、 ウォルター・アファナシェフ(Walter Afanasieff)、 ナラダ・マイケル・ウォルデン(Narada Michael Walden)。 もちろんドニーもプロデューサー、エグゼクティブプロデューサー、ラッパーとして参加している。

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そしてグループ名をNKOTBに改名し、権利問題も全てクリアにした。 

このアルバムからの1stシングルとなった「Dirty Dawg」では、今までの彼らのイメージからは想像できないセクシャルな歌詞が問題になり、一部ではこの曲のオンエアを禁止するラジオ局も出現。 明らかに今までのニューキッズとは違うことが慮実に表れている。 また、この曲ではナイス&スムース(Nice & Smooth)のラップをフィーチャーしていることも注目すべき点に挙げられるだろう。

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今までのアイドルイメージを払拭しようと挑んだ意欲作だったが、セールス的には失敗に終わる。 アルバムはビルボード最高位37位。 シングル「Dirty Dawg」は最高位66位に終わった。

この失敗の要因としては、彼ら自身が望む方向性と、ファンが抱く期待に、大きなギャップが生じた事が考えられる。 ニューキッズのみならず「キッズグループからの卒業」というハードルはあまりにも高すぎたのだ。 

そして彼ら自身がコーラスグループとして機能していなかったことも事実だ。 リードシンガーのジョーダン・ナイト(Jordan Knight)の歌唱力は目を見張るものがあるが、それ以外のメンバーは明らかに実力不足だった。 セカンドボーカルを務めるジョー・マッキンタイア(Joey McIntyre)でさえ、既に変声期を迎え以前のようなラルフ・トレスバント(Ralph Tresvant)チックな淡い歌声を失っていた。

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しかし全体的な内容は決して悪くない。 彼らのこれまでのアルバムと比較すると、最もR&B寄りの まともな作品である。 テディ・ライリーのプロデュース曲はパッとしないものの、マライア御用達プロデューサーであるウォルター・アファナシェフによる大人びたバラード「If You Go Away」や「Since You Walk Into My Life」は傑作だ。また、サントラ「Free Willy」にも収録された「Keep On Smiling」は、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)がこの曲を気に入り、マイケルの直々の要望でサントラに収録する運びになったというエピソードも。

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アルバム発表後のヨーロッパツアーの最中で、メンバーのジョン・ナイト(Jon Knight)が脱退を表明。 それが引き金となり、ツアー終了後にグループは解散を表明した。

ニューキッズは10年間の活動に終止符を打った。
ドニーはこれまでを振り返ってこう語っている。

「 ニューキッズは、俺にとって大学みたいなものだった。
 エンターテイメント界のノウハウを学ぶ場だったと考えている。
 決して後悔はしていないよ。」





6. 第二の人生

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「学生時代に演劇のクラスを取って以来 ずっと興味を持っていた。」

そう語るドニーは、ニューキッズ解散後、俳優としての道を歩き始めた。 
映画デビュー作は1996年の「Bullet」。

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ミッキー・ローク主演のハードボイルド・クライムムービーだ。 この映画には2パックも出演しており、イタリアンレストラン内で繰り広げる2パックとの壮絶な銃撃シーンは一見の価値ありだ。

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1999年に公開された映画「シックスセンス」では、映画の冒頭でブルース・ウィルスを射殺する精神異常者を見事に演じた。 元々この役は14歳の少年という設定だったが、オーディションでドニーの演技を気に入った監督が、脚本の設定を変更してまでドニーを起用したとか。 この役のためにドニーは5週間液体しか摂取しないという過酷なダイエットに挑み、20キロの減量に成功。 さらに路上でホームレスとして生活し、役作りしたという。 

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他にも「ドリームキャッチャー」 「身代金」 「Band Of Brothers」 「ボディカウント」など、脇役ながら強烈な印象を残している。

「 ニューキッズをやっていた時も、グループ内のバットボーイとして
 自分に与えられた役を演じ続けてきたような気がするよ。」

俳優として着実にキャリアを築いていくドニー。
続けとばかりに他のメンバーたちも動き始めた。

1999年。
元メンバー2人がメジャーからソロデビューを果たす。

ジョーダン・ナイトの「Jordan Knight」。
ジョーイ・マッケンタイアの「Stay The Same」。

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どちらのアルバムにもドニーはプロデューサーとして参加。 そこで Mobb Deep の曲をサンプリングするなど、相変わらずのヒップホップ好きが伺える。 この2人のソロデビューは見事成功。 特にジョーダンのアルバムにはジャム&ルイス(Jam & Lewis)が参加し、彼らが
プロデュースにしたシングル「Give It To You」は大ヒットした。

元メンバー達のカムバックがきっかけとなり、ニューキッズの再結成の噂が囁かれた。
その質問に対して、ドニーはこう答えている。

「 ありえないね。
 仮に実現するとしても、まだまだ早すぎるよ。
 今はメンバー全員がそれぞれ目標に向かって突き進んでいるから。
 俺は、もうミュージックビジネスには興味ないんだ。」

かつて「白人版 New Edition」と呼ばれたニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック。
New Edition の方は、2004年に Bad Boy Record からカムバックを果たした。
それは彼らにとって、約8年ぶりの活動再開だった。

ニューキッズが解散してから今年で11年。
再び彼ら5人の姿を見れる日を、私は密かに期待している。

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=45 =1

Category: チャーリー・バルティモア

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チャーリー・バルティモア

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真っ赤に染めたストレートヘア。
きりっとした鋭い目つき。

彼女の名前はチャーリー・バルティモア(Charli Baltimore)。

その派手ないでたちや、ビギーの元愛人として語られることの多い彼女ですが、これまでに歩んできた茨の道はあまり知られていません。今日はそんな彼女の軌跡を振り返ってみましょう。





1. 生い立ち

1974年8月6日。 ペンジシルバニア州フィラデルフィア。
チャーリー・バルティモアこと本名ティファニー・レイン(Tifanny Lane)は生まれました。 

父はドイツ系の白人、母はアフリカ系の黒人。 両親はチャーリーが幼い時に離婚。 そんな両親に代わってチャーリーを育ててくれたのは12歳年上の義理の姉ヨランダでした。 幸せな家庭の代わりに、チャーリーが出会ったはラップミュージックでした。

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「当時はビック・ダディ・ケインとかをよく聞いてたの。 ラップを始めたのは12歳の頃。 学校ではいつも私が一番の女ラッパーだったわ。 男顔負けのね。」

しかしチャーリーにとって10代の日々は楽しい青春時代とは言えませんでした。 14歳の頃に付き合っていた彼氏は、身長190センチもある札付きのワル。 その彼氏は何か気に入らないことがあるとすぐチャリーに暴力をふるったといいます。 17歳の時、チャーリーはその彼氏の子供を妊娠しまが、彼の暴力は決して止まりませんでした。 

「私が妊娠中の時に起きた事を今でも覚えている。 彼氏が部屋で男友達3人とダイス(サイコロの賭け事)をして遊んでいたの。 私が彼の部屋に入ると、突然彼氏が怒り出した。 私がノックをしないで彼の部屋に入ったことが気に入らなかったみたい。 私の顔にあざが出来るまで殴られたわ。 周りの男達は私が殴られるを見て 笑っていたのよ。」

その後 長女インディア(India)を出産。 
チャーリーはその男と別れ、シングルマザーとして娘を育てていく決意します。

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高校卒業後、チャーリーはピアース・カレッジ(Pierce Colleage)に進学。 ファインアートを専攻し、卒業間近になった頃、チャーリーは新しい彼氏との子供、シアーニ(Siaani)を出産。 しかしその彼氏はチャーリーと娘を残したまま家出。 チャーリーは娘2人を養うため、法律家補助員として働き始めます。

そんなチャーリーに転機が訪れたのは1995年の夏。 
ビギーことノートリアスBIG(Nortrious B.I.G)がツアーでフィラデルフィアに訪れた時のこと。 コンサート後に行われたパーティー会場で、チャーリーはビギーと出会います。

「出会った瞬間に、特別なものを感じたわ。 お互いにね。」

その日をきっかけに、2人は恋に落ちていきます。





2. 運命の留守番電話

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ある日、チャーリーはビギーに1本の電話をかけます。 しかしビギーが外出中だったため、チャーリーはふざけてラップでメッセージを残します。 そしてこの留守電が、その後の彼女の人生を大きく変えることになりました。 数時間後、ビギーからチャーリーに折り返し電話がかかってきます。

ビギー「留守番 聞いたんだけどよ、おまえラップの才能あるな。」
チャーリー「ふざけてラップしてみただけだよ。 」
ビギー「いや、おまえにはラップの才能がある。 続けるべきだ。」

ビギーは真剣でした。
チャーリーのラッパーとしての才能にいち早く気付いたのです。
この助言をきっかけに、チャーリーは真剣にラップに打ち込んでいきます。

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そして『チャーリー・バルティモア』というラッパー名もビギーによる提案でした。 ある日、ビギーとチャーリーは一緒に映画「ロング キス グッドナイト」を見ていました。 1996年に公開されたブルース・ウィルス主演のこの映画のなかに、ジーナ・ディビス(Gina Daivs)演じるチャーリー・バルティモアという登場人物が出てきます。

チャーリー「チャーリー・バルティモアっていい名前ね。」
ビギー「おまえ、これからチャーリー・バルティモアって名前にしろよ。」

この映画の登場人物チャーリーは、娘を育てるシングルマザーでありながら、スパイとしても活動する2つの顔を持つ女性、という設定になっています。 ラッパーでありシングルマザーであるチャーリーは、この登場人物に共感を抱いたといいます。

チャーリーが世間に初披露となったのが1996年に発表されたJuniorMafiaのシングル「Get Money」のPV。 元々はFaith Evansが出演する予定でしたが都合がつかなかったため、彼女の代役としてチャーリーが出演する運びとなりました。

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晩年のビギーはラップグループ「The Commision」の活動開始を準備していたと言われています。 構成メンバーはビギー、、Jay-Z、そしてチャーリー。 ビギーがどれほどチャーリーの才能を評価していたのかが伺えます。 しかし このプロジェクトが実現することはありませんでした。 ビギーの身に起きたある事件によって・・・





3. 試練の時

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1997年3月9日。 ビギーが射殺されます。
チャーリーは実の父親と、次女の父親である元彼氏を亡くしたばかりでした。 

「何故こんなにつらい思いをしなければいけないのか分からなかった。」

愛する人達を次々に失ったチャーリーは、失望のあまり睡眠薬を多量摂取し自殺を図ります。 それはビギーの葬儀が行われる2日前でした。 幸いにもチャーリーは一命を取り留めますが、心に負った深い傷は決して癒える事はありませんでした。

チャーリーは病院から退院し、ビギーの葬儀に出席します。 

しかし出席者の誰もがチャーリーに冷たく接します。 フェイス・エバンスの取り巻きからも、リル・キムの取り巻きからもチャーリーは敵視され、「晩年のビギーを独占したよそ者」、「ビギーを利用して有名になろうとした女」という扱いを受けます。 周りからの冷たい視線に耐えられなくなったチャーリーは、泣きながら立ち去ります。 

走り去っていくチャーリーの後ろ姿に、心を痛めた人物がいました。
彼の名前はランス・リベラ(Lance Rivera)。
かつてビギーのビジネスパートナーだった人物です。

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「ビギーの死で心を痛めているのは僕も、彼女も、みんな同じなのに、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。 そしてチャーリーが泣きながら出て行く姿を見て、何かが間違っていると思ったんだ。  彼女こそ助けが必要だと思ったんだよ。」

Untertainment Records の社長であるランスは、生前ビギーからチャリーを紹介されていました。 ランスはチャーリーに連絡を取り、自身のレーベルにチャーリーを迎え入れます。





4. Untertainment Records 時代

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1998年。チャーリーはシングル「Money」を発表し、ラッパーとしてのキャリアを開始します。
この曲はサウンドトラック「Woo」にも収録されました。

つづけて2ndシングルとなる「Stand Up」を発表。
Hot Rap Singelsチャートで9位を記録します。

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同じく1998年には、レーベルメイトであるキャムロンが「Confessions of Fire」でアルバムデビューを果たします。 チャーリーもこのアルバムにゲスト参加します。

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1999年にはサウンドトラック「Trippin」に参加。 
「Everybody Wanna Know」を提供します。

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そして遂にチャーリーのデビューアルバム「Cold As Ice」の製作が開始されます。 このアルバムには、ものすごい豪華な顔ぶれが集結しました。 プロデューサは テディ・ライリー(Teddy Riley)、RZA、DJプレミア(DJ Premier)、ゲストラッパーは、ゴースト・フェイス・キラー(Ghostface Killah)、キャムロン(Camron)、モブ・ディープ(Mobb Deep)、ノリエガ(Noreaga)、クィーンペン(Qeen Pen)、ダ・ブラット(Da Brat)、ギャングスタ・ブー(Gangsta Boo)などなど。 

特にRZAとの仕事は、チャーリーにとって思い入れが強いようです。 

「RZAに仕事を依頼した時、"女と仕事するのは嫌だね"って最初は断れたの。 その後に私のデモテープをRZAに送ってみたの。 私の事を知ってもらう為にね。 デモテープを聴いたRZAから連絡が来て、"是非一緒に仕事したい"って言ってくれたんだ。 彼に認めてもらえて、すごく嬉しかった。」

しかしながら音楽的方向性の違いでチャーリーはレーベル側と揉めてしまいます。 

「レーベル側は私をアーティストとして見てくれなかった。 ポップな曲ばかりをやらせようとしたの。 マーキー・マークが演るような軽いノリの曲をね。 私はもっとハードなやつがやりたかった。 もっとストリートに根付いているようなハードなラップをね。 」

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本来1999年の夏に発売されるはずだったチャーリーのアルバムは、度重なる発売延期を繰り返します。 そして配給元のエピックソニーは、Untertainment Recordsとの契約を解消。 必然的にチャーリーのデビューアルバムはお蔵行きとなり、チャーリーは、Untertainment Recordsから離脱します。 

「当時はプロモーションツアーやインタビューで毎日すごく忙しかった。 アルバムの発売を目標に頑張ってきたのに、それがダメになったと聞いた時はそうとう落ち込んだわ。  ラップに対して 意欲を失ってしまったの。」

レーベル離脱後、チャーリーはモデル、女優として活動します。 
2000年にはスパイク・リー監督のコメディ映画「Bamboozled」に出演。 
2001年には映画「Snipes」に出演し、Nelly や Schooly-Dと共演します。 




5. マーダー・インク時代

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2001年。チャーリーはマーダー・インク(Murdar Inc.)と契約。
久しぶりに音楽界へと戻ってきます。

レーベルメイトのJa Ruleはチャーリーについてこう語っています。

「チャーリーはものすごい才能を持つアーティストだ。 なのにチャーリーの才能に気づいていない人が多すぎるよ。 多くの人が彼女のことを「ビギーの元愛人」という捉え方をしている。 すごく残念だ。  ビギーが発掘した彼女の才能を、もっと多くの人に知ってもらいたい。  それを世間に知らしめることが俺やゴッティの役目だと思うよ。」

マーダーインクでの初仕事となったのは2002年のJa Ruleの曲「Down Ass Bitch」です。 映画「ボニーとクライド」をモチーフにしたこの曲のPVには、俳優エリック・ロバーツ(Eric Roberts)やクラレンス・ウィリアムス(Clarence William)も出演しています。 PVの話題性もあり、この曲はビルボードチャートで21位を記録します。 更にその続編として作られた「Down 4 U」(アルバム「Irv Gotti Presents: The Inc.」収録曲)でもチャーリーは再びJa Ruleと共演します。

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他アーティスト作品への客演をこなしていく一方で、自身のアルバムの製作も開始します。 
前回のアルバムと今回のアルバムを比較してチャーリーは当時こう語っています。

「前回のアルバムでは周りからの制約があって、自分を全く表現できなかったけど、今回は本当の自分を表現することが出来た。 以前はいろんなプロデューサーと仕事したけど、今回はゴッティが連れてきたチンク・サンタナ(Chink Santana)とほぼ全曲をつくったの。 チンクとは3日で6曲作った時だってあったわ。 それからEveと一緒に、ビギーの「Brooklyn's Finest」をリメイクしたの。 あまりいろんなゲストを迎えるのは嫌なんだけど、彼女は別よ。 同じフィラデルフィア出身だし、とても上手くいったわ。」

そしてチャーリーのアルバム「The Diary」は完成し、アルバムからのファーストシングルとなる予定の「Hey Charli」のプロモ盤が出回ります。 

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全てが順調かに思えました。

ところが、ここにきて またしてもアルバムの発売延期が繰り替えされます。 この件が引き金となり、チャーリーはアーヴ・ゴッティとたびたび衝突。 そしてチャーリーはゴッティと喧嘩別れするような形で、マーダーインクを離れることになります。 チャーリーの離脱について、アーヴ・ゴッティはこう述べています。

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「俺が今までに契約を交わした全てのアーティスト達は、皆スターの素質があった。チャーリーだってもちろんそうだったし、今でもそうだと思っている。 俺がやらなくてはいけないことは、スターの素質があるアーティストを、本当のスターにするために、最高の作品を作り上げることだ。 より良い作品を作るために、俺達は何度も何度もスタジオに戻って、繰り返しトライしたよ。 納得のいく作品になるまで絶対に妥協したくなかったんだ。 でもチャーリーは、もうこれ以上待てなかったんだ。 彼女には家族もいるし、年齢も若くはないからね。 だから彼女がレーベルを辞めると言ってきた時、俺は彼女を引き止めなかったんだ。」





6. 三度目の再起を賭けて

2005年10月。
チャーリーは、ラッパーThe Gameが所有するレーベル Black Wall Street と正式に契約を交わしたことを発表します。

「初めて会った時から、Gameは私の才能を高く評価していくれていた。 私も彼の音楽が好きだし、一緒に仕事したいと思ったから契約したのよ。」

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2005年末に発表されたThe GameのオフィシャルMix CD 「Stop Snichin Stop Lyin」 に収録さている「Testify」と「Bounce Back」の2曲で、チャーリーはThe Gameとの共演を果たしています。 特に「Testify」の中では、元ボスであるアーヴ・ゴッティを強烈にディスしています。 
また、現在チャーリーは 自身のMixCDをレコーディング中です。

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1998年のデビューから8年。
彼女は未だにアルバムをリリースできていません。

これまでの人生を振り返ってチャーリーはこう語ってます。

「今までの自分の人生を振り返るとイロイロなことがあったと思う。 でも自分の過去を悩んだり恨んだりはしていない。 私は挫折や失敗の中から何かを見つけて、もう一度挑戦するタイプなの。」

たくさんの障害にぶつかりながらも、前向きに生きていくチャーリー。
彼女が三度カムバックしてくれることを私は固く信じています。




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Category: ファザーMC

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Father MC

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「Daddy」
「Father」

どちらも父を意味する単語です。

「Puff Daddy」
「Father MC」

駆け出しの頃のパフ・ダディが、最初に手掛けたのがこの Father MC だと言われています。 パフィの大躍進ぶりは周知の事実ですが、ファザーMCはその後どうしたのでしょうか? 今日はそんな Father MC が歩んだ軌跡について振り返ってみましょう。



1. パフィの下済み時代

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「昔はアンドレの車を洗車したり、コピーをとったり、雑用ばかりさせられたよ」

これ、彼のインタビューでよく出てくるフレーズです。

ニューヨークにある名門ハワード大学でビジネスを専攻していたパフィは、音楽業界入りを夢見ていました。 そしてアンドレ・ハレル(Andre Harrell)率いるアップタウンレコード(Uptown Record)にインターンとして無給で働き始めます。 アンドレの家に下宿しながら、レコード会社で働き、大学にも通うという、ハードな日々を送ります。

雑用期間を経て、彼はめきめきと才覚を発揮していきます。



2. パフィとの出会い

一方のファザーMCこと本名ティモシー・ブラウン(Timothy Brown)は、
元々ダンスホール系のミュージシャンとしてキャリアをスタートさせます。 

当時のラップシーンは、大きく分けて3つに分類されていました。
NWAに代表されるギャングスタラップ。 パブリック・エネミー(Public Enemy)のような社会派ラップ。 そしてMCハマー(MC Hammer)のようなパーティーラップ。 そんななか、数は少ないけれども LL Cool J の 「I Need Lov 」や、Slick Lick の 「Teenage Love」のように 愛をテーマに扱ったラップも存在しました。 そこに目をつけたのがファザーMC。 女性に対しての愛を題材にロマンチックなラップをする。 ファーザーという名前もそこに由来があるのでしょう。

ファザーMCがレゲエからラップに方向転換した頃、パフ・ダディはA&Rとして働き始めます。A&Rとは、アーティスト&レパートリーの略で、アーティストの発掘と育成が主な仕事。 野心を抱く若きパフ・ダディ君の目にかかったのが、このファザーMCでした。

アップタウンレコードに参入したファザーMCは、
1990年にアルバム「Father's Day」で遂にデビューします。 

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ここでパフィはエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされています。 このアルバムを通してパフィが成功させたことは以下の3つが挙げられます。

 ・次期スター予備軍の紹介
 ・サンプリングの大ネタ使い
 ・ヒップホップソウルの確立(RapとR&Bの融合)

参加クレジットを見ると、バックボーカルとして、デビュー前の K-Ci & JoJo とMary J Bridge の名前が確認できます。 この時点ではまだ無名だった彼らも、このアルバムへ参加が、その後のキャリアへとつながったです。 パフィの頭の中では、既にその後の計画も描かれていたのでしょう。 

このアルバムからシングルカットされた「I'll Do For You」は、シェリル・リン(Cheryl Lynn)の1978年のヒット曲「Got To Be Real」のまんま使いしています。 このアルバム以降、ファザーMCもパフィも、サンプリングソースの大ネタ使いを多用していきます。 その原点はここにあったと言えるでしょう。 

メアリーJがサビ部分を歌ったこの曲「I'll Do For You」は、Hot Rap Singleチャートで見事1位を記録します。 続いてシングルカットされた「Treat Them Like They Want To Be Treated」も同じく1位を獲得します。 

楽曲の親しみ易さと、ロマンチックなリリックが受け、今までラップに興味を持たなかったような女性達も巻き込んで、ファザーMCはアップタウンレコードの代表格へと躍進します。 彼にとって充分すぎるほどのデビューでした。



3. 多忙の日々

その後、ファザーMCのもとに他アーティスト作品への参加が急増します。

1991年レイ・パーカー・ジュニア(Ray Parker Jr.)のアルバム「I Love You Like You Are」にプロデューサおよびラッパーとして参加。

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1993年のFour Sureのアルバム「We Can Swing」にラッパーとして参加。

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1993年サントラ「Who's The Man?」には「Pimp Or Die」を提供。

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1992年には自身のセカンドアルバム「Close To You」を発表します。

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これまた豪華な制作人でした。 プロデューサーとしてパフ・ダディ、LAリード(L.A. Reid)、デイブ・ジャム・ホール(Dave Jam Hall)、DJエディF(DJ Eddie F)、ハウィー・ティ(Howie Tee)。 バックボーカルとしてヘイリー兄弟、メアリーJが再び参加。 アルバムの作風も前回同様New Jack Swingテイスト溢れるヒップホップソウル。 何と言っても最高傑作は1曲目の「All I Want」です。 デイブ・ジャム・ホールが作り出したメロウなトラックに、女性ボーカルのサビ部分とファザーMCのラップが絶妙に絡み合います。 

このアルバムからシングルカットされたのは「Everything's Gonna Be Alright」。 K-Ci&JoJoが冒頭から熱唱しまくるこの曲は、Hot Rap Singleチャートで2位を記録しました。

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3. 改名の時。低迷の時。

1994年。
MCハマーは、MCを取り外してハマーと改名することを発表します。

「ラップというジャンルにとらわれず、全ての面でエンターテイナーとしてありたい」というのがその理由でした。 改名の理由付けはともかく、MCと名乗るのは既に時代遅れの感があったのは確かです。 サルエル・パンツで踊りまくり、一躍時の人となったMCハマー。 彼の時代は確実に終わろうとしていました。 移り気の早い世間は、既に彼を「過去の人」として捉え始めます。 

この業界で生き残るには、常に観客の興味をひきつける何かを行わなくてはいけない。 そう思ったハマーは、名前を変え、パーティーラップからギャングスタラップへと路線を変更します。
   
ファザーMCもそう感じたのでしょうか。 
時期ほぼ同じくして、彼も「Father MC」から「Father」へと改名します。 さらに自身の音楽性も、今までのようなロマンチックなリリックではなく、New Jack Swing でもなく、ハードコアラッパーへと転身を図ります。 改名後初となるアルバム「Sex Is Law」のジャケットには、はじめて「Parental Advisory Explicit Content」(=教育上よろしくない歌詞が含まれている)の文字が記載されました。

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テディ・ライリー(Teddy Riley)、DJエディF(DJ Eddie F)、クラーク・ケント(Clerk Kent)など有名プロデューサーを採用するも、このアルバムは失敗します。

同時期に改名&方向転換したハマーも同様に失敗しました。元来ゴスペル出身のハマーが、ギャングスタルックを身にをまとい、そう振舞ったところで何ら説得力はありませんでした。 ロマンチックな愛について唄ってきたファザーMCが、突然卑猥な言葉を多用するハードコアラッパーへ急変したことは、今までのファンを失うことを意味していたのです。



4 表舞台から裏舞台へ

レコード契約を失ったファーザーは、再び名前をファザーMCに戻し、インディーズでの活動を開始します。 今までの彼のアルバムには、その時最も旬なプロデューサーが複数参加していました。 ファザーMC自らがプロデュースを担当することはなく、楽曲作りは全て他人の手に委ねていたのです。 インディーズという限られた制作予算の中で、ファザーMCは自ら全曲をプロデュースします。 その努力の末、自作自演アルバム「This Is For The Player」が1995年に発売されます。

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さらに外部での仕事も積極的にこなしていきました。

1997年に発表されたコメディ映画「Fakin' Da Funk」のサウンドトラックに参加。「Could Care Less 」を提供します。

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同じく1997年に2 Live Crew のルーク(Luke)が取り仕切ったコンピレーションアルバム「Luke's Peep Show」に Father 名義で参加。

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この頃からファーザーMCは、ラッパーからプロデューサーへと活動の場を変え始めます。1998年にはR&BシンガーBishopの「Missing Link」を発表。 ここではファザーがほぼ全曲をプロデュースし、真っ向からR&B作品に挑んでいます。 インディーズ M.I.L. Multimedia からの発売ながら、全曲が濃厚なメロウバラードで埋め尽くされた傑作でした。


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さらに、ファザーMC自らが全米各地をオーディションして選び抜いたという、人種混合4人組女性R&BグループTeezを結成させます。 そして1999年にインディーズ Echo よりデビューアルバム「Gamin」を発表します。 ここでもファザーMCが全曲をプロデュースを担当。前述のBishop同様、大人びたスローが満載の隠れた名盤です。(ジャケットが意味不明だが)

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メジャーからインディーズ。
ラッパーからプロデューサー。
大きな環境の変化のなかで、彼は地味ながらも、自らの足で少しずつキャリアを築き始めたのです。



5. 父として

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1997年。ファザーMCは逮捕されます。 
ニューヨークの人気女性ディスクジョッキー、ウェンディー・ウィリアムズ(Wendy Williams)の番組に出演するためラジオ局を訪れた際、待ち伏せていた警官に逮捕されます。 容疑は養育費の未払い。 彼には結婚していない女性との間に子供がいました。 その養育権をもつ女性側が、ファーザーMCから充分な支払いがされていない事を警察に訴え、今回の逮捕となりました。

さらに1999年。ファザーMCは再び逮捕されます。 容疑は前回と同じく養育費の未払いによるもの。 彼はこの女性に対し、合計66,000ドルの養育費を滞納していました。

その年、インディーズStreet Solidから、新アルバム「No Secret」をひっそりと発売します。しかし所属レコード会社があまりにも弱小の為、充分な配給もプロモーションもなく、結果を出すことはありませんでした。 これ以降、彼は姿を消してしまいます。

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6. カムバック

それから4年。

誰もが彼の存在を忘れ去った2003年。 ファザーMCは表舞台にカムバックします。 配給元は大手BMG。 1994年以来ずっと弱小インディーズで活動していた彼は、再び大舞台に返り咲きました。 

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このアルバム「My」は、今までになくアップテンポなラップナンバーが展開されます。 特に大きなハイライトなどはなく、決して内容的には良くない作品ですが、彼がこうしてカムバックした意義のほうが大きいのではないのでしょうか?

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ほぼ同時期に業界入りし、それぞれの道を歩き始めたパフ・ダディとファザーMC。
ビジネスマンとして大成功したパフィに対し、アンダーグラウンドで奮闘するファザーMC。
ありえないですが、私は再度この2人が手を組むことを未だに夢見ています。




=11 =1

プロフィール

管理人ケリー

  • Author:管理人ケリー
  • Authorのプロフィール:
    【好きな音楽】 NewJackSwing
    【好きなSinger】 Jodeci
    【好きなRapper】 Father MC
    【好きな映画】 Heat
    【好きな俳優】 Edward Norton
    【好きなType】 Mayte Gracia
    【趣味】 Chill out at cafe
    【特技】 Hip Hop Dance
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