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かつて一世を風靡した人達を追い続けるハードコアな独り言の数々

Category: ジェレミー・ジョーダン

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ジェレミー・ジョーダン

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「金髪」「青い目」「6つに割れた腹筋」。 
これ、いわゆる欧米の白人女性達が抱く理想の男性像です。 

まさしくこんな風貌のシンガーが、90年代に存在しました。
彼の名前はジェレミー・ジョーダン(Jeremy Jordan)
デビュー当時の売り文句は「黒人のように歌えるセクシーな白人シンガー」

しかしながら、その見た目の華やかさとは裏腹に、
彼は過酷な人生を歩き続けてきました。


1. 過酷な幼少期

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1973年9月19日。 インディアナ州に生まれ。
本名はDonald Henson。 父はベトナム戦争の帰還兵。母は若干16歳の若さでジェレミーを出産。 ほどなくしてその母は養育権を父に譲り家を出る。 それ以来ジェレミーは母と会っていない。 父はその後 再婚を繰り返すが、ベトナム戦争での悲惨な経験が彼の精神を破壊し始める。 子供の養育が不可能だと判断した彼は、ジェレミーと異母兄弟3人を、ムースハート孤児院へと預ける。 ジェレミーがまだ若干9歳の時の話だ。 それからは孤児院といろいろな里親の元で生活することになる。

「確かにやさしい人たちもいた。 でもひどい暴力をふるったり、フォークやナイフを投げつけてきたりする里親もいたよ。」

13歳の時、施設の人に連れて来られた教会でゴスペルと出会う。 ジェレミーは聖歌隊に入隊し、そこで歌うことを学び始めた。 

14歳の時、当時の里親から幾度となく虐待を受け、逃げるように父の元へと戻る。 当時の父の再婚相手であるジェレミーの義理の母は、ジェレミーを我が子のように扱い、ジェレミーは彼女を本当の母のように慕った。  しかしそんな彼女は不幸にも病死していまう。 

再び孤児院や里親との生活を余儀なくされた彼は、以前にもまして音楽と演劇を学ぶことに力を注ぐ。 そうすることが、この生活から脱出する唯一の方法だと感じたからだ。 


2. ホームレスからスターへ

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17歳の時、孤児院を脱走。
アメリカンドリームを夢見て、シカゴへと向かう。 

しかし現実はそう甘くはなかった。 

シカゴにいる唯一の知人の実家に居候させてもらうも、しばらくすると彼の両親から「もう出て行ってくれ」と言われてしまう。 他に頼る宛もないジェレミーは、気が付けばシカゴのホームレースの擁護施設や、地下鉄で眠る日々を送ることになる。  

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そんなある日、ふと立ち寄ったホットドックレストラン Damon Dogsの壁に、ゴールドディスクが飾られているのを目にする。 それはかつての人気ロックバンド、Chicagoの元マネージャーであるピーター・チェバレーリ(Peter Schivarelli)が経営する店だった。 ジェレミーは是非ピーターに会わせてくれと店員に懇願する。 

何度か店に通った後、誠意が通じてやっとピーターに会うことのできたジェレミーは、彼の目の前でBoyz II Men の「It's So Hard To Say Goodbye To Yesterday」をアカペラで歌って見せる。 この曲のオリジナルはChicagoの代表作だ。 ジェレミーの歌声とその端正な容姿を気に入ったピーターは、彼のマネージャーになることを決意。 すぐにレコード会社へ連絡。 翌週には2人でロスに渡り、レコード会社とのオーディションへと向かった。 音楽界の重鎮アービング・アイゾフ(Irving Azoff.)との面接を通して、彼の手掛けるGiants Recordとの契約を果たす。

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このGiant Recordsは、この時Chicagoが一時在籍していたワーナーミュージック傘下のレーベルで、当時人気だったNew Jack Swingを得意とするColor Me Badd, MCハマー、Tony Tompsonなど、PopとR&Bの中間を行くようなアーティスト達が集っていた。おそらくレーベルが得意とするジャンルとその売り出し方に、ジェレミーの歌唱力と端麗な容姿がマッチしたのだろう。 

ほどなくしてジェレミーのアルバムのレコーディングが始まった。製作人には、アル・B・シュア(Al B Sure) や ロビー・ネビル(Robbie Nevile)、キース・トーマス(Keith Thomas)といった当時の売れっ子プロデューサーが集結。1993年にはデビューアルバムとなる「Try My Love」を発表した。

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当時主流だったNew Jack Swingを模倣したトラックと、彼の教会仕込みの力強い肉声がマッチしたアルバムは、「黒人のように歌える白人」と評された。 しかしそれ以上に世間の評価は、彼のビジュアルの方に注目が集まっていった。 

同年1993年にシングルカットされた「Wanna Girl」は、ビルボードチャート最高位28位を記録。

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たった1年前ホームレスだった少年が、今やスッポトライトと歓声を浴びるスターへと変貌していた。 彼はアメリカンドリームを実現したのだ。


3. スターへの拒絶

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アイドル雑誌ではJeremy のピンナップが掲載され、今最もホットなシンガーとして、全米中のティーンを虜にした。 しかしジェレミーはそんな周りの環境に順応できずにいた。 音楽性よりもアイドルとして扱われる毎日にフラストレーションは溜まっていく。 カメラの前で常に笑顔を振りまき、好きな色や、好きな女性のタイプなど、お決まりのインタビューに答える日々に疑問を抱き始める。 

それは幼い頃から孤独で、迫害された続けて育った彼にとっては、あまりにも大きすぎる変化だった。

「尊敬する人は誰?っていう質問をされると戸惑うんだよね。 あまり愛された事がないから分からないんだろうな。 昔からものすごく孤独だよ。 友達を作ることもろくにできないような環境で育ったからね。」

そんなジェレミーの葛藤とは裏腹に、世間での彼の人気は留まることを知らなかった。 次のシングル「The Right Kind Of Love」も大ヒットし、同曲はTVドラマ「ビバリーヒルズ青春白書」のサウンドトラックにも収録された。 

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ドラマの中でもその曲のPVは放送され、視聴者から大きな反響を呼ぶ。 ドラマの製作者サイドは、ドラマの視聴者とジェレミーのファン層とが大きく重なることから、更なる相乗効果を狙ってドラマへの出演オファーをジェレミーに出す。 もともと演劇に興味のあった彼にとって、全米の超人気ドラマのレギュラーの役がもらえるというのは、またとないビックチャンスだった。

しかし彼はそのオファーを断ってしまう。

「あのドラマの内容が気に入らないんだ。 高校生なのにポルシェを乗り回しているような金持ち坊やの恋愛ドラマなんて、ご免だね。 俺の周りでポルシェに乗っている奴なんて、盗んだ奴ぐらいしかいなかったよ。」

セカンドアルバムの製作に入っても、その製作方針でレコード会社側と大きく衝突する。 レコード会社は、アイドル路線のアルバムを望んだが、ジェレミーは断固としてそれを拒否した。 人にプロデュースされるのではなく、自らの手で作詞作曲した楽曲で、ありのままの自分を表現したいと主張。 両者の意見が食い違う中で難航した2ndアルバムは、当時の所属レコード会社の破産によりお蔵入りとなってしまう。

事態はそれだけに留まらなかった レコード会社との契約解約、デビュー時から二人三脚で歩んできたマネージャー、ピーターとも契約を解消する結果となった。 

移り気の激しい世間は早くも次なるスターを求め、人々はジェレミーの存在を忘れれていった。 
それはまるであのスポットライトが幻だったかのように。


4. 模索の日々

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ジェレミーはニューヨークに移り、新しいエージェントICMのもとで俳優としてのキャリアを歩み始める。

しかしなかなか思うように仕事が得られず、ゲイ雑誌などでヌードモデルなどをして生計を立てたる時期もあった。 映画デビューは1995年ニコラス・ケイジ主演の「Leaving Las Vegas」。 ここでは「大学生その2」という役柄で、名前も台詞もないエキストラだった。 しかしTVドラマなどを中心に、小さい役どころでも着実にこなしていき、徐々に仕事は増え始める。 

1995年にはグレッグ・アラキ監督の「Nowhere」に出演。 麻薬中毒者のミュージシャン役を演じ、強烈な存在感を示した。 この映画は「ドラックやセックスにまみれたビバリーヒルズ青春白書の過激版」と各誌で唄われた。 

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1999年にはドリュー・バルモア主演の映画「Never Been Kissed (邦題 25年目のキス)」に出演。 初のメジャー配給での大役を獲得。 同サウンドトラックには自らのペンによる「A Girl Called Happiness」を提供。 彼にとっては6年振りとなる音楽活動の再開となった。 

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続いて映画「Dreamers」に出演。 低予算映画ながら彼にとって初の主演映画となった。 加えてこの年にジェレミーは結婚。 私生活も充実し、俳優としての彼のキャリアもまさにこれからだと思われた。 しかしこの年以降、彼は表舞台から消えることとなる。


5. 過去の傷

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1997年。 ジェレミーは裁判所の証言台に立っていた。
ジェレミーが14歳の時の里親が、度重なる児童への性的虐待が明るみになり、彼の裁判が行われていた。 そのことを知人の新聞記者を通じて知ったジェレミーは、自ら検察側へ連絡を取り、容疑者の有罪を確定させる為、裁判所へと出向き、彼が当時経験した虐待の全てを証言した。

「いつかはこういう日が来るとは思っていた。 
 俺の他にも何人もの子供が犠牲になっていたかと思うとものすごく心苦しいよ。」

ジェレミーの26分に及ぶ証言が、容疑者を15年の有罪判決へと導いた。
裁判終了後のジェレミーは記者にこう語った。

「過去に与えられた心の傷を、今日再び開けてしまった気がする。 
 あれから長年閉じこめてきた深い傷を。」

2002年、彼の妻が病気により他界。 
そして彼は、ドラックを常用しはじめる。
もはや彼はハリウッドから完全に姿を消していた。

2003年には再婚するも、完全なドラック中毒となっていた。 麻薬取引が原因で9度の逮捕歴を残していた。 服役・出所・逮捕を繰り返す夫の姿に、妻は苦悩する。 

2004年、ジェレミーは妻からもらった20ドルを片手にドラックを買いに出かけた。 その場に待ち合わていた警察に現行犯逮捕される。 妻が自ら警察に電話したのだ。 悩んだ末、ジェレミーの更正を願って妻が取った行動だった。 

「とてもつらい決断だったわ。 でもこうするより仕方なかったのよ。 
 このままでは絶対にいけないと思ったから。」


6. My Love Is Good Enough

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ジェレミーは服役終了後、麻薬更正施設 Betty Ford Clinic に入所する。 そこで10ヶ月間の更正プログラムを終え、晴れて出所を果たした。 

「あの日証言台に立った時以来、俺は過去のトラウマに悩みつづけてきた。 そしてそれに立ち向かうこともできず、ドラックに頼り、自分を失ったんだ。 でも同じ過ちはもう二度と繰り返さない。 今からもう一度全てを築き直すんだ。」 

ジェレミーは最近、長い間連絡の途絶えていた父親や3人の兄弟達と頻繁に連絡を取り合っているという。バラバラになった家族を1つに戻とそうと努力しているのだ。

そして今、妻とともに新しいエージェント探しに奔走している。

これまでになく彼は楽しそうだ。
自らの足でこれからの道を歩いていく。
人生はいつからでもやり直しができる。
彼の人生はまだ始まったばかりだ。



7. エピローグ

1st アルバムのプロモーションで来日した時のジェレミーのインタビューの中で、とても印象深い言葉がありました。

「僕は日本語ができないし、日本のファンの多くは英語が話せないけれど、僕が歌い始めるとみんな一緒に歌ってくれたんだ。 これが音楽の素晴らしいところなんだね。 音楽を通じて、みんなの愛を感じることができたんだもの。」

この記事は元々15年ほど前に書いたものでした。
どこかのタイミングで誤ってその記事を削除してしまい、今回改めて復元および加筆しました。

この15年間の間に、とても多くのジェレミーファンの方々から温かいコメントを沢山頂いております。
ジェレミーがこんなにも長い間愛されているのだと改めて感じました。
皆さんの気持ちを、いつか彼に伝えることができたらと思っています。

-- 2021年5月2日 管理者より --




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プロフィール

管理人ケリー

  • Author:管理人ケリー
  • Authorのプロフィール:
    【好きな音楽】 NewJackSwing
    【好きなSinger】 Jodeci
    【好きなRapper】 Father MC
    【好きな映画】 Heat
    【好きな俳優】 Edward Norton
    【好きなType】 Mayte Gracia
    【趣味】 Chill out at cafe
    【特技】 Hip Hop Dance
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